コーヒー哲学序説

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。
―寺田寅彦「コーヒー哲学序説」

人のことを少しずつ知っていくにあたって、誰しもお決まりの質問をいくつか持っているかと思う。仕事、生活、趣味、家族。
私の場合、そこに「コーヒーはお好きですか?」というのが定番入りしている。

コーヒーというのは不思議な飲みもので、好きでも嫌いでも、みんな何かかしらのエピソードを持っている。
かっこつけてブラックを我慢して飲んでいたら、いつの間にか平気になっていた。
子どものころから甘いカフェオレだけは好き。
カフェインの摂取手段としか思っていない。
好きが高じて自分で豆を焙煎するようになった。
年齢を問わない通過儀礼のようにコーヒーと出会い、ある人は惹かれ、ある人は離れ、ある人は時を経てから再会し関係を深める。

同じコーヒー好きでも、こだわりや趣向がひとりひとり違うのも楽しい。コーヒーを淹れるのは、作業か儀式かルーティンか。自分で淹れたいか、お店で淹れてもらいたいか。どんなときに、どんな空間で飲みたくなるか。飲むとどんな気分になって、何を思うのか。そこにはその人の哲学がある。

コーヒーへの思い入れからのぞく感性に、この本をきっかけに目を向けるのもきっと面白い。