いきの構造

生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。「いき」とは畢竟ひっきょうわが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。
―九鬼周造「いきの構造」

縁。侘び寂び。ごはんの前の「いただきます」。

私たちには日ごろ感覚的に使っていて、文化的背景を掘り下げないと説明できない概念がたくさんある。誰かに質問されたとき、ふと心に留まった言葉があったとき。ニュアンスのとらえ方や説明の仕方で考え込むこともあるだろう。


もちろん、似通った単語や比喩を並べて、それらしく形容することはできる。でもせっかく心に留まったなら、私たちの文化ににじむ思想にも目を向けたい。自分の感性に融けこんだものと向き合って、その粋を言語化できるようになりたい。文化にはそれぞれの色彩が、香りが、手触りがある。それをお互いに汲みとって、それぞれの言葉で共有することほど楽しい感性の深め方はないと思う。

そんな願いもあって、いまの私は日本文化や日本語について訊かれたとき、疑問に思ったとき、そっと一呼吸いれて考えるようにしている。歴史、信仰、哲学。どれをどの割合で、どう組み立てれば伝わるか、と。

「いき」というのも、そんな一言では説明できない概念のひとつだ。説明以前に、日本語でその中身を表現すること自体、なかなか難しい。

さっぱりした潔さがある。外部の視線をうっすら想定していても、けっして意識はしない。主張しないけれど、おのずと感じられる色気や芯の強さがある。
これは「いき」ですか?と訊かれても、確信をもって⚪︎×をつけるのは難しそうである。

そんな「いき」を論理的に分解・考察したのが、九鬼周造の「いきの構造」だ。

前提として、「いき」と同じ意味をもつ外国語の言葉はない。実際に体験しないと理解できない、民族特有の概念だ。それをふまえて、私たちが感覚的にとらえている「いき」の中身を検討してみると、3つの構成要素が浮上する。

相手に接近していく「媚態」。
気品や理想、そしてそれを保ち続けるための反抗心をふくんだ「意気地」。
執着を捨てた「諦め」。
この3つが組み合わさって、「垢抜して(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である「いき」を体現しているのだ。

ここからが面白いのだが、九鬼周造はその後「いき」という感覚的な概念を、ひとつの直方体で論理的に可視化している。媚態・意気地・諦めと関連する性質として、上品と下品、派手と地味、意気と野暮、渋味と甘味の8つの性質があげられるのだが、これを直方体の8点におき、その点どうしを組み合わせた図形や立体を示すことで、それぞれが表現する概念が一つずつ検討されている。

彼は「いき」を理解するには体験が必要で、ロジックに限界があることを認識している。それでも言語化と理論化を試みることで、感覚的な概念の芯や骨組みを発見することができる。骨組みがあれば、それを足掛かりに他の概念へと考察を発展させることができる。それをひとつの直方体で示唆してみせているのだ。

「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」という九鬼周造の思想は、真摯に、緻密に「いきの構造」で体現されている。

*この本は青空文庫で原文を読むこともできますが、わかりやすい日本語に訳された角川ソフィア文庫がおすすめです。九鬼周造の生い立ちも解説されているので、本書の成り立ちにも思いを馳せることができます。