書物の倫理

自分の文庫にはその隅々に至るまで自分の息がかかっていなければならない。このような文庫は、丁度立派な庭作りの作った庭園のように、それ自身が一個の芸術品でもある。
― 三木清「書物の倫理」

なぜ実用性のない本を読むのか。そう問われたことがある。

相手はおそらく、仕事や趣味に直接関係しない本を読むのに何の意味があるのか、と率直に尋ねたかったのだろう。ただこちらの考えを知りたい、という雰囲気だった。

当時の私は「頭の中の本棚が自分らしく充実するのがうれしいから」と答えたが、相手は首をかしげるだけで、共感できないようだった。今、改めてお互いに同じ問いに答えるとしたら、どうなるだろう。今でも時々、自分の答えを推敲する。

そもそも私は、その本から得られるものが情報と体験のグラデーションのどこに着地するか、それほど気にしていない。情報のまとまりを得る手段としての読書と、心や感性を刺激する手段としての読書。本のジャンルによって、その比率に傾向はあれど、組み立てや展開によって想定と異なる読書体験が得られることは往々にしてある。小説を読んでその題材に詳しくなることもあれば、実用書や論文を読んでわくわくしたり胸が高鳴ったりすることもある。

本を手に取るきっかけもさまざまだ。どこかで見かけた引用文に惹かれて、青空文庫をキーワード検索して、作者にほれ込んで、人に勧められて。出会いが何であれ、大切なのは自分自身で選びとったものであることだ。そうすると、その積み重ねである本棚におのずと愛着もわく。人は向きあい続けたもの、心を揺さぶられてきたもので表現されるからだ。

知りたい、問いたい、試してみたいという好奇心。理解したい、浸りたい、より深く潜っていきたいという探究心。どちらも私なりの世界との向き合い方、愛し方のひとつだと思っている。それにともなう感情が情熱的でも冷静でも、本棚にならんだ一冊一冊は、私が意識を占めることをゆるし、心や思考を動かしてきたもののこれまでとこれからなのだ。