書物の倫理

自分の文庫にはその隅々に至るまで自分の息がかかっていなければならない。このような文庫は、丁度立派な庭作りの作った庭園のように、それ自身が一個の芸術品でもある。
― 三木清「書物の倫理」

なぜ実用性のない本を読むのか。そう問われたことがある。

相手はおそらく、仕事や趣味に直接関係しない本を読むのに何の意味があるのか、と率直に尋ねたかったのだろう。ただこちらの考えを知りたい、という雰囲気だった。

当時の私は「頭の中の本棚が自分らしく充実するのがうれしいから」と答えたが、相手は首をかしげるだけで、共感できないようだった。今、改めてお互いに同じ問いに答えるとしたら、どうなるだろう。今でも時々、自分の答えを推敲する。

そもそも私は、その本から得られるものが情報と体験のグラデーションのどこに着地するか、それほど気にしていない。情報のまとまりを得る手段としての読書と、心や感性を刺激する手段としての読書。本のジャンルによって、その比率に傾向はあれど、組み立てや展開によって想定と異なる読書体験が得られることは往々にしてある。小説を読んでその題材に詳しくなることもあれば、実用書や論文を読んでわくわくしたり胸が高鳴ったりすることもある。

本を手に取る理由もさまざまだ。どこかで見かけた引用文に惹かれて、青空文庫をキーワード検索して、作者にほれ込んで、人に勧められて。出会いが何であれ、大切なのは自分自身で選びとったものであることだ。そうすると、その積み重ねである本棚におのずと愛着もわく。人は向きあい続けたもの、心を揺さぶられてきたもので表現されるからだ。

知りたい、問いたい、試してみたいという好奇心。理解したい、浸りたい、より深く潜っていきたいという探究心。どちらも私なりの世界との向き合い方、愛し方のひとつだと思っている。それにともなう感情が情熱的でも冷静でも、本棚にならんだ一冊一冊は、私が意識を占めることをゆるし、心や思考を動かしてきたもののこれまでとこれからなのだ。

いきの構造

生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。「いき」とは畢竟ひっきょうわが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。
―九鬼周造「いきの構造」

縁。侘び寂び。ごはんの前の「いただきます」。

私たちには日ごろ感覚的に使っていて、文化的背景を掘り下げないと説明できない概念がたくさんある。誰かに質問されたとき、ふと心に留まった言葉があったとき。ニュアンスのとらえ方や説明の仕方で考え込むこともあるだろう。


もちろん、似通った単語や比喩を並べて、それらしく形容することはできる。でもせっかく心に留まったなら、私たちの文化ににじむ思想にも目を向けたい。自分の感性に融けこんだものと向き合って、その粋を言語化できるようになりたい。文化にはそれぞれの色彩が、香りが、手触りがある。それをお互いに汲みとって、それぞれの言葉で共有することほど楽しい感性の深め方はないと思う。

そんな願いもあって、いまの私は日本文化や日本語について訊かれたとき、疑問に思ったとき、そっと一呼吸いれて考えるようにしている。歴史、信仰、哲学。どれをどの割合で、どう組み立てれば伝わるか、と。

「いき」というのも、そんな一言では説明できない概念のひとつだ。説明以前に、日本語でその中身を表現すること自体、なかなか難しい。

さっぱりした潔さがある。外部の視線をうっすら想定していても、けっして意識はしない。主張しないけれど、おのずと感じられる色気や芯の強さがある。
これは「いき」ですか?と訊かれても、確信をもって⚪︎×をつけるのは難しそうである。

そんな「いき」を論理的に分解・考察したのが、九鬼周造の「いきの構造」だ。

前提として、「いき」と同じ意味をもつ外国語の言葉はない。実際に体験しないと理解できない、民族特有の概念だ。それをふまえて、私たちが感覚的にとらえている「いき」の中身を検討してみると、3つの構成要素が浮上する。

相手に接近していく「媚態」。
気品や理想、そしてそれを保ち続けるための反抗心をふくんだ「意気地」。
執着を捨てた「諦め」。
この3つが組み合わさって、「垢抜して(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である「いき」を体現しているのだ。

ここからが面白いのだが、九鬼周造はその後「いき」という感覚的な概念を、ひとつの直方体で論理的に可視化している。媚態・意気地・諦めと関連する性質として、上品と下品、派手と地味、意気と野暮、渋味と甘味の8つの性質があげられるのだが、これを直方体の8点におき、その点どうしを組み合わせた図形や立体を示すことで、それぞれが表現する概念が一つずつ検討されている。

彼は「いき」を理解するには体験が必要で、ロジックに限界があることを認識している。それでも言語化と理論化を試みることで、感覚的な概念の芯や骨組みを発見することができる。骨組みがあれば、それを足掛かりに他の概念へと考察を発展させることができる。それをひとつの直方体で示唆してみせているのだ。

「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」という九鬼周造の思想は、真摯に、緻密に「いきの構造」で体現されている。

*この本は青空文庫で原文を読むこともできますが、わかりやすい日本語に訳された角川ソフィア文庫がおすすめです。九鬼周造の生い立ちも解説されているので、本書の成り立ちにも思いを馳せることができます。

コーヒー哲学序説

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。
―寺田寅彦「コーヒー哲学序説」

人のことを少しずつ知っていくにあたって、誰しもお決まりの質問をいくつか持っているかと思う。仕事、生活、趣味、家族。
私の場合、そこに「コーヒーはお好きですか?」というのが定番入りしている。

コーヒーというのは不思議な飲みもので、好きでも嫌いでも、みんな何かかしらのエピソードを持っている。
かっこつけてブラックを我慢して飲んでいたら、いつの間にか平気になっていた。
子どものころから甘いカフェオレだけは好き。
カフェインの摂取手段としか思っていない。
好きが高じて自分で豆を焙煎するようになった。
年齢を問わない通過儀礼のようにコーヒーと出会い、ある人は惹かれ、ある人は離れ、ある人は時を経てから再会し関係を深める。

同じコーヒー好きでも、こだわりや趣向がひとりひとり違うのも楽しい。コーヒーを淹れるのは、作業か儀式かルーティンか。自分で淹れたいか、お店で淹れてもらいたいか。どんなときに、どんな空間で飲みたくなるか。飲むとどんな気分になって、何を思うのか。そこにはその人の哲学がある。

コーヒーへの思い入れからのぞく感性に、この本をきっかけに目を向けるのもきっと面白い。